2020年8月25日
いつもホームページを見てくださる方、はじめてホームページを見てくださる方、こんにちは。
例年ならえいご村キャンプを終えて次の年の会場と日程を予約する頃です。
新型コロナ禍が未だに終息が見えない中、私たちのえいご村プロジェクトのメンバーはこれから迎えるコロナ共生(WITHコロナ)時代の子どもたちの作る社会について真剣に考えています。
これからのグローバル教育はどうなるのか、世界に通用するコミュニケーション(対話)能力はどう養えばいいのか、などを話しあっています。
その中で 大学とのコラボレーションの話も出てきています。
大学のキャンパスを使ってえいご村のコンセプト(=年齢・性別・国籍の壁を越えて一つの村のように助け合う)でイベントをやってみようという企画も進んでいます。
全国の英語塾・教室ともオンラインを通じて交流していくことも考えています。
個人的には日本遺産になっている近代日本の教育の源流となった藩校や私塾を訪ねてこれからの日本の国際化について考えてみようと考えています。
日本遺産のサイトより以下引用
近世日本の教育遺産群
-学ぶ心・礼節の本源-
我が国では、近代教育制度の導入前から、
支配者層である武士のみならず、多くの庶民も読み書き・算術ができ、
礼儀正しさを身に付けるなど、高い教育水準を示した。
これは、藩校や郷学、私塾など、
様々な階層を対象とした学校の普及による影響が大きく、
明治維新以降のいち早い近代化の原動力となり、
現代においても、学問・教育に力を入れ、
礼節を重んじる日本人の国民性として受け継がれている。
近世の日本人が高い教養を身につける上で大きく貢献したのが、全国各地に建てられた学校です。
足利学校
その学校の始まりと言えるのが、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが「日本国中最も大にして最も有名な坂東の大学」と称した足利学校です。足利学校の創建については諸説ありますが、15世紀、上杉憲実(のりざね)は学規を定め、現在国宝となっている漢籍(かんせき)を寄進するなどして足利学校を再興し、戦乱の時代においても全国から多くの学徒が集まりました。
その教えは、儒学を中心としながらも、易学・兵学・医学など多岐にわたり、日本最古の総合大学と呼ぶにふさわしいものでした。
江戸時代になると、足利学校は、貴重な書籍の宝庫として、幕府から保護されました。足利学校の自由で開放的な学びと自学自習の精神は、近世の学校の原点と言えます。
閑谷学校
岡山藩主の池田光政は庶民の教育も不可欠と考え、閑谷学校(しずたにがっこう)を創りました。光政は熊沢蕃山(くまざわばんざん)から学んだ儒教思想にのっとり、緑の生い茂る閑かな山村に教育の理想を体現しました。現在国宝となっている講堂などの建物や石塀などの施設は、火災や雨から守り長持ちさせるための工夫がされており、学校存続への強い願いが表れています。経済基盤としては井田村下井(いたむらしもい)等の学田(がくでん)を持たせて学校の永続を図りました。日本最古の庶民教育学校とも呼べる閑谷学校では、広く門戸を開き、他領からも多くの生徒が集まりました。
また、18 世紀以降多数の藩校が建設されますが、その配置計画は閑谷学校のように日本的なものが大多数となっていきます。したがって閑谷学校は日本の学校建築の出発点に位置し、現存最古の代表例といえます。
咸宜園
江戸時代後期には、個人が経営する私塾も日本全国に数多く生まれてきました。
幕府の代官所が置かれた豊後日田では、町人を中心とした自由な風土が育まれ、廣瀬淡窓(ひろせたんそう)が咸宜園(かんぎえん)という私塾を創設しました。咸宜園では、毎月成績評価を行う「月旦評(げったんひょう)」などの特色ある教育が全国的な評判となり、各地の私塾に影響を与えるとともに、全国60か国以上から5,000人を超える門下生を集め、日本最大規模の私塾となりました。咸宜園に隣接する豆田町には、淡窓の日記や入門簿・会計録などの史料が伝わる淡窓旧宅や長福寺などの町並みが残り、その周辺では、咸宜園である前身の桂林園跡(けいりんえんあと)や塾主の墓を見ることができます。
弘道館
また、幕末に頻繁に起こった外国船の接触によって、時代を切り開く力を持った有能な人材の育成が必要となり、実力主義や幅広い科目を教える学校が広がっていきました。
弘道館は、水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)が教育によって人心を安定させ、国を興すために設立した日本最大規模の藩校です。水戸藩には、歴史書『大日本史』を編集した彰考館(しょうこうかん)があり、昔から学問・教育が盛んでした。弘道館は、歴史だけでなく、医学、兵学、武芸など実用的な科目も備えた総合大学ともいえるもので、その教育方針や施設、運営方法等は松代藩校文武学校や庄内藩校致道館等の他藩の藩校にも大きな影響を与えました。一方、偕楽園は勉学の休息の場として位置づけられ、弘道館と対をなしていました。偕楽園の梅は、非常食になる実用的側面と、学問を好む「好文」という異名を持つことから斉昭が植樹を奨励したもので、水戸藩の学問興隆の象徴となっています。郊外にも個性重視の教育を行った日新塾など、特徴的な私塾が建てられ、多彩な門人を輩出しました。
こうした日本の学校は、中央政府である幕府ではなく、民間や藩が主導して発展していったことに特徴があり、幅広い教育を行うことができました。
具体的には次の告知までお待ちください。
えいご村 村長 山下研一
(特定非営利活動法人マナビバ 理事長)